黒子のバスケ

創 (つくる) 2014年 10月号 [雑誌]

創 (つくる) 2014年 10月号 [雑誌]

黒子のバスケ」脅迫事件最終意見陳述とある。
渡邊博史被告の最終意見陳述(抜粋)、「渡邊博史さんへ・・意見陳述を読んで」(香山リカ)そして「意見陳述にある多くの深刻なキーワード」(斎藤環)と続く。後段のお二人の文章もとても大切なものだが、何より本人の陳述が重い。
以下の部分を引用させていただく。

「説明を始める前に自分が用いる8つの言葉を列挙しておきます。まず『社会的存在』です。これと対になる言葉は『生ける屍』です。『社会的存在』という言葉は先ほど申し上げました『被虐うつ』に取り組む精神科医の著者からの引用です。
 次に『努力教信者』です。対になる言葉は『埒外の民』です。この2つの言葉は自分のオリジナルです。『努力教信者』の枠内での強者が『勝ち組』で、弱者が『負け組』です。
 さらに『キズナマン』です。対になる言葉は『浮遊霊』です。『浮遊霊』が悪性化した存在が『生霊』です。良性腫瘍が癌化するのに似ています。そして『浮遊霊』も『生霊』も『無敵の人』です。」

これで大体のことが感じられる。

そして「逮捕されてからの自分はとても人に恵まれていました。」とすっきりと語る渡邊博史被告。
ほんとうにそうなんだろうなと、感じる。
虐待やいじめのもたらすもの。一方虐待やいじめの背景。
人が社会から排除される・・除け者になる・・ことって、そう感じることって、どういうことなんだろう。
簡単にわかるわからないではなくて、私たち一人ひとりがよく考えてみること。とても大切だと思う。

暴露

暴露:スノーデンが私に託したファイル

暴露:スノーデンが私に託したファイル

エドワード・ジョセフ・スノーデン、社会保障番号XXXXXX
CIAにおけるコードネームXXXXX、ID番号XXXX
アメリカ合衆国国家安全保障局NSA)元シニアアドヴァイザー、会社員に偽装
アメリカ合衆国中央情報局(CIA)、元現場要員、外交官に偽装
アメリカ合衆国国防情報局(DIA)、元講師、会社員に偽装」


「私は自分の行動によって、自分が苦しみを味わわざるをえないことを理解しています。これらの情報を公開することが、私の人生の終焉を意味していることも。しかし、愛するこの世界を支配している国家の秘密法、不適切な看過、抗いえないほど強力な行使権といったものが、たった一瞬であれ白日の下にさらされるのであれば、それで満足です。あなたが賛同してくれるなら、オープンソースのコミュニティに参加し、マスメディアの自由闊達な精神の保持とインターネットの自由のために戦ってください。私は政府の最も暗い一角で働いてきました。彼らが恐れるのは光です。」(スノーデン)


「今日、ジャーナリズムの世界に身を置く多くの者にとって、政府から”責任ある”報道というお墨付きをもらうこと---何を報道すべきで何を報道すべきでないかについて、彼らと足並みを揃えること---が名誉の証となっている。これは事実だ。そして、それが事実であるということが、アメリカのジャーナリズムがどれだけ体制の不正を監視する姿勢を失ってしまったか、そのことを如実に物語っている。」(著者グレン・グリーンウォルド)

一読されたし。

集団的自衛権

「法の番人」内閣法制局の矜持

「法の番人」内閣法制局の矜持

 「こういった細かい類型を出してきているのは、集団的自衛権の行使という根拠でもないと説明できないし、こういうことをする必要があるから集団的自衛権を行使できるようにすべきだという主張のためですよね。でも、それならこんな仮想的な事例を出さなくても、外国での戦争ができないのを、外国での戦争ができるようにしたいと言えばいい。そう言わず、なぜこんな非現実的な類型をたくさん作るのか、よくわからないですね。・・集団的自衛権の行使でないと説明できないから憲法解釈を変えるべきだと言われると、『そうですか、ならば憲法改正ですね』としか答えようがないですね。」
 著者阪田雅裕氏のスタンスは明快である。それは、戦後ずっと自民党政権のもとで積み上げられてきた憲法解釈がはっきりしているからである。
 自衛権の発動については、政府見解としての三要件が示されている。
 1, わが国に対する急迫不正の侵害があること
 2, これを排除するために他の適当な手段がないこと
 3, 必要最小限の実力行使にとどまるべきこと
 これも、偶発的な事例や、個別艦船への攻撃などの問題ではなく、「国または国に準じる組織」による武力攻撃という基本ラインははっきりしている。あなたの国はわが国に対して戦争を仕掛けてきているのですね、という明確な認識をもった上での対応だということ。基本的な評価の問題であって、個別の事件の問題ではない。
 そして、現在の憲法9条では、これ以外の武力行使はできないのだ、という見解。ここは、極めて明快でしかも単純である。もし、時代が変わったから、国際情勢が変わったから、武力行使の必要が生まれているというのなら、憲法を変えてからにしてくださいよ、と。国民的議論を経て、定められた手続きを経ておこなわれるのが当然であり、一内閣の解釈変更でできる問題ではないと。
 シンプルなことだ。
 この著書では、内閣法制局の概要から、PKOや周辺事態法への法制局のこれまでの対応までしっかりと説明されている。それによってこのシンプルな見解が、より重みを持って迫ってくる。戦後の日本の歩みの柱のひとつに当たるものとして、もう一度頭を巡らせてみる。

神道と日本人

 なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか・・この点に著者は極めて日本的な事象を見出している。
 「外来の神」であった八幡神が、「八幡大菩薩となることによって、神道の神であると同時に仏教の仏としての地位を得ることになった」「応神天皇と習合して皇祖神の地位を確保し、朝廷の信仰を集めただけでなく、」「武神として朝廷を補佐した武家の信仰をも集めることとなった。」さらに最終的には「各地で一般の民衆が八幡神を勧請して、地域の氏神として祀ることに発展していく。」
「近世まで続く神仏習合の時代の象徴的な存在であり、その分、日本人全体の信仰を集めることとなった。」と指摘される。

 現在、毎日新聞に「いま靖国から(戦後70年に向けて)」という記事が連載されている。この数回は東条英機の孫東条英利を追う。6月6日付では「東条氏の話はいつも通り『神道=日本人らしさ』に始まり、神社のうんちくと・・」とある。
 そう、問題はこの「神道=日本人らしさ」をどのように捉えるかということだ。
 先ほど、著者が「近世まで続く神仏集合」と書いていることを引いた。この著書は八幡、天神、稲荷・・と日本の神のそれぞれの歴史を紐解きながら、すべてに共通する「断絶」として明治政府による「神仏分離」「廃仏毀釈」に触れざるを得ない。
 そのあとに来るのが「明治流神道」(これは私の造語)である。
 靖国神社などは、明治流神道の典型であろう。
 そこには、「日本」に長い間育まれてきた豊かな信仰とは別のものが存在する。
 あ、いかんいかん。ついついそちらに話が行ってしまう。

 伊勢、出雲、春日、熊野、祇園・・・最後にはわが瀬戸内の大山祗神社にも少しだけ触れてある。必ず私たちひとりひとりに馴染みのあるこれらの存在を、豊かな歴史として解き明かしてくれる。
 日本人の教養として不可欠のテーマと考える。

菌類・植物と生態系の進化

読み通すのに、とっても骨が折れる著書。
菌、細菌、キノコ、植物などの名前が延々と続く。素人だからほとんどわからない。
わからないけど文字を追っていると眠くなる・・・
そんなことのくり返しだった。
でも、最後の章でやおら目が覚める。


「迫りくる大絶滅」。


「生物進化の跡をたどってみると、全能の神を持ち出すまでもなく、まるで誰かが地球を使って壮大な実験を試みているように見える。陸上に暮らす生物の多くは、その進化の頂点に達し、ほかの生物に頼る共栄の時代に入っている。その高度に発達してもろくなった生態系を、脳が肥大化、言いかえれば巨大化した、たった一つの種にすぎないヒトが撹乱し、破壊しようとしているのである。」


それまでの300ページ近くは、地球の生物の進化が記されているのだが、それは、菌類の進化を不可欠のものとして織り込んだ、生態系全体の進化なのだと。そう、著者は強調する。


「直接、間接を問わず、多くの異種生物がかかわっている植物体は、本来多重共生体だと言えるだろう。この多重共生体が集って群落を作ると、さらに相互のつながりが多様化して、一つの生物体のようにまとまりのある生態系ができあがる。おそらく、このような多重共生が成り立つようになったのも、被子植物が現れてからのことだったと思われる。」


大きく言って、「三段跳びの進化を遂げた」生態系は、今その最高の段階に達している。


そして、
「ここ数千年の間にヒトが異常に繁殖し、地球生態系が大きく狂い始めた。」のだ。
つまり、生態系の進化の結果として、ヒトが異常繁殖した。
「進化論」の捉え方の問題だが、ヒトだけが、進化を続けて最高の段階に達した「すぐれた」生きものという理解は、間違っているということ。すべてのものが連関して進化して、生態系として現在に至っている。
こう書くと、そんなの当たり前、何を今ごろ・・と言われるだろうが、これはほんとうに世の中の常識となっているだろうか。
われわれはほんとうに、生態系の一員という自覚を、つねに持ち続けているだろうか。


キノコといえば、瀬戸内のある島で椎茸の工場栽培を見学させていただいたことがある。
その時にもった違和感は、この著書を読んでよけいに強くなった。


松茸から冬虫夏草まで、実にたくさんのキノコ・菌類が登場する。
キノコ好きの方には最高の著作。

里山資本主義

僕は社会科の授業で、「兼業農家」って、何か否定的な存在として学んだ記憶がある。
皆さまはどうか。
例えば米どころ新潟。
ゴールデンウィークには、あの広い越後平野を雪解けの水が満たす。
見渡すかぎりの水田に一斉に田植えがおこなわれる。
そこを一軒一軒歩いたことがある。選挙のお手伝いだ。
家には子どもたちが留守番。トラクターで田植えをする若い世代は、
普段は働きに出ている人たち。連休だからと、みんな田植えに出る。
つまり、兼業。米どころ新潟においても、それが多数だったと記憶する。
そして、とても豊かな農村を形作っている。
僕の田舎でも、専業農家は、主流ではない。

「百姓」と網野善彦は強調した。
畑を耕し、水のあるところでは米をつくり、川や海で魚や貝や海藻を摂り、山でキノコや薪を得。
竹を編んで籠を売り・・・・
さまざまな、可能なことすべてを尽くして生きてきた。
もちろん、商品経済も含まれる。
それが日本の姿だと。

100%資本主義って、米国くらい。
日本は、7割資本主義くらいかな?
中国は5割?
欧州は意外と「資本主義率」低いかも。
その他の大多数の地域は、「すべてカネ」ではない生き方をしている。

里山資本主義」って、その、完全には資本主義化されていない、
つまり、交換価値化されていない、つまりプライスレスな部分をきちんと見ようよ、と。
そういうことではないかと、僕は勝手に考える。

宮本常一の出た、周防大島もちゃんと登場するので何かうれしかったり。

そして、そのプライスレスな部分こそ、
人にはとても大切なことなのだと。
生きものにも地球にもはもちろん。

そして、日本中にこころある人達がたくさんいるのだということを、
この本は教えてくれる。
カネに身を委ねない人たちがたくさんいることを。
だからまた、前を向く。
そのことでとても元気をもらう。

村上海賊の娘

村上海賊の娘 上巻

村上海賊の娘 上巻

自民党村上誠一郎衆議院議員が、特定秘密法案に反対し、本会議の採決を欠席した。この人は、村上水軍の子孫。しかも、この小説の主人公「景」の能島村上の子孫だと言う。
なるほど!
そんなの関係ないとばかにするなかれ。
能島村上は、村上水軍(海賊)3派のなかで、毛利や河野の陸地大名に屈服せず最後まで独立を貫いた系統なのだ。

沖縄の普天間移設問題で、自民党幹事長の石破が沖縄県選出の自民党国会議員を呼んで説得、辺野古への県内移設を認めさせた。これは、簡単な話で、認めなければ次は公認しないと脅かしただけのこと。それくらいでビビるなら政治家やめろ!と言いたいが、今の国会議員はほとんどがこのレベル。バッチがほしいだけ。もちろん与野党を問わず。モノ言えぬ国会になっているのです。「公認権」で脅かして中央独裁を維持しているだけのこと。特定秘密法も基本このような考え方から出てきたものに他ならない。
だから、そんななかでたった一人だけ自民党で退席した村上誠一郎は、とってもとっても偉い。
実は僕の地元はこの愛媛2区!田舎のじいちゃんばあちゃんに言っとこ!

村上誠一郎はきっとこの本を読んで、そして本会議を欠席したのだ。

自由と独立。
これがテーマだと思う。
戦国末期、信長と対峙した大坂本願寺。瀬戸内から紀州にかけての海賊たちもふた手に別れ海上の戦をたたかう。能島の村上武吉は、信長に抗して戦う道を選び、包囲された本願寺海上から食糧などを運び入れる作戦に参加する。しかし実は本気で毛利に与する気持ちはなく、狙いは別のところに。しかし、現場での景の「活躍」によって戦になり、毛利・村上連合軍が勝利する。
歴史的には、その後信長の「鉄の船」によって水軍は敗北するのだが、その手前でお話は終わる。

屈服して生きるか、戦って死ぬか。突き詰めればそんな選択を、この時代の地方大名たちは迫られた。その中での生き方のひとつ。
それが歴史の進歩だって言うかもしれない。

しかし、安倍や石破の行く先に進歩はあるのか。
権力でいうことをきかせるだけの政治。情報統制。こんな社会で育った若者たちが、グローバル社会を生きてゆく人材になるのか。
この著書は、ちょうどそんな時に、人として生きることの構えを問い直させてくれるものだと思う。
自由と独立の大切さを。