海に生きる・・海人の民族学

 「海人はたんに海の商品を生産し、交易網の末端で従属的な役割を演じてきただけではない。この点で本書が強調したいのは、海の世界史を担った名もなき海人の果たした役割を正当に評価し、今後の人間と海とのかかわりを考える重要な契機とすべき点である。」と冒頭にある。
 ひとつには、「海人の活動を生態系のなかで位置づけるのである。」
 そして、大きくは「海の問題」の「研究と総合化」をはかる、そのためのステップとして書かれたものと理解する。
 例えば僕が田舎に帰って漁師になりたい!と願ったとする。実は以前から密かに温めている夢のひとつなのだが、それは実現可能なのか?まず、船はどうするのか?いくらでどんな船が買えるのか(ネットではもう調べてある・・)、だがこれは、どんな漁をするのかによって変わる。どんな漁か、それはどんな魚が瀬戸内の風早の海にはいるのか、それとも少し遠くにでなければならないのか。つまり瀬戸内の生態系はどうなっているのかが問題になる。加工用の魚か、貝類?刺し身や煮魚用?・・・そして、なんといっても漁協に入らねばなるまい。趣味の釣りなら許されるが、生業にするにはモグリでは無理だ。漁協には新人は入れるのか・・多分困難か?そうすれば時期によって漁の解禁、禁漁が詳しく決められているであろう。それにも当然従わねばなるまい。養殖をやるのか?いいやそこへの参入はもっと難しいにちがいない。潮の流れはどうなっているのか。海はキレイになっているのか、温暖化の影響は?
 と。これは生態系の理解であるとともに、営々と人びとが営んできた漁業のなかで作り上げられてきた自然との関係性、人と人の関係性をすべて反映されたものと理解せねばなるまい。そしてTPPや震災復興の絡みでの「規制緩和」。企業が漁業に参入すればどうなるか。当然このことも避けては通れない。
 僕は、仮に漁師になれなくても、海を豊かにする活動にはいつか関わりたいと思っている。三陸の「森は海の恋人」のように。
 日本は、海洋国。しかしその海洋観は非常に切り縮められてはいないか。曰く「尖閣は日本のものだ!」曰く「津波を防ぐには大堤防が必要だ」曰く「これからは企業の漁業が必要だ」とか・・・あーーーーーついつい書きすぎてしまう。こんな貧困な海洋観を脱すること。
 海の豊かでとても大きな生態系への理解。人間が海と関わって生きてきた長い歴史。魚をとるだけでなく、交易、経済を考える上でも欠かせない、社会の歴史。漁村、漁港の人びとの暮らしの実際。それぞれを知ること。
 そして著者はその上に、それらを総合することが極めて大切だと主張する。
 「(津波からの)復興を統合的に実現することは、沿岸域の総合的管理(ICM・・インテグレーテッド・コースタル・マネジメント)といいかえれば、統治のあり方に帰着する。・・・およそ次のような見取り図を描いておくこと・・・第一に、森里海の連関を保全・維持する立場からの計画立案・・・第二に河川流域における防災と環境保全・・・海岸部の埋め立てや盛り土、防潮堤建設などが自然の循環を破壊しないよう・・・」あらゆる官庁・組織の連携と協働が不可欠だと。それが「科学」だと。
 うまく書けなかったけど、僕もこの著書に賛同する一人だ。
 「海に生きる」とは、海とともに生きること。

山頭火

山頭火百句

山頭火百句

子規以来の俳句好きに加えて、山頭火の最後の地が松山の「一草庵」だったこともあり、松山人は山頭火が好きだ。この文庫も松山の出版社が出して、空港の郷土コーナーに並んでいた。
山頭火の100句を50人の鑑賞者がそれぞれ2句ずつ評するという編集になっている。

評者のおよそ半分は名前(号)からして女性だろうか。どうやら、女性と男性でだいぶん評価が別れる。「女房子供を捨てて好き勝手に彷徨うだけでも嫌なのに、疲れた、とか言って別れた女房のところに舞い戻り、また去り、長男から結婚式に出てほしいと送ってきたお金まで飲んでしまう男なんて。何が『まっすぐな道でさみしい』だ!」(中原幸子

男は対照的に・・「たとえば昭和11年4月の『層雲』15週年記念大会の写真。中央に山頭火が腰をおろし、その後ろに井泉水が立っており、二人の左右に『層雲』の仲間が並んでいる。その50数名がすべて男。男たちの宗教的、修養的な俳句ネットワーク、それが山頭火の放浪を可能にしたのだった。」(坪内稔典)と編者も認めているような熱の入れようだ。

このへんが、とても可笑しい。

それと、山頭火の句には、自身以外の人はほとんど出てこない。
  日ざかりの千人針の一針づつ
  みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
銃後で詠んだ句が印象的だが、あとはいつも「ひとり」。
一人で歩く旅ではあったが、「行乞」での出会い、宿での出会いは毎日たくさんあるはずなのに、日記にはそんなこともたくさん書いてあるのに、句はいつも
  何を求める風の中ゆく
  かげもいっしょにあるく
と言った調子なのだ。

まったく不思議な人だ。

  分け入っても分け入っても青い山
  ひよいと四国へ晴れきつてゐる

続き

織田信長 (人物叢書)

織田信長 (人物叢書)

意図したわけでは全くないが、前回の「秀吉と海賊大名」の続きになってしまう。
「私の立場は、民衆のために平和=統一をめざしたかのごとき権力像を描こうとするものではなく、また、敗者・抵抗者を歴史の『進歩』を見誤った愚者のように扱うものでは決してないことを表明しておきたい。」
このように、まえがきから著者の立場は明快である。

日本歴史学会編集の人物叢書の中の一冊であるから、その歴史考察は具体的になされる。著述の3分の2は、信長の30年に及ぶ戦争の延々とした記述(の印象)。改めて、とてつもなくたくさんの人びとを殺戮した独裁者であることを否応なく思い知らされる。
そして、信長に歴史的進歩性があるとすれば、関所撤廃、「楽市・楽座」などの流通・都市政策であること。
しかし、農政・民生の面ではみるべきものはないことが指摘される。「検地」が実行されたのはわずかで、「百姓と直接向き合い、百姓の生産や暮らしをみつめて百姓支配の政策を生み出そうとすることのなかった信長」には「村や百姓支配に関わって発給した文書はほとんどないのである。」と。


「秀吉と家康は死後の早い時期に神として祀られたが、信長は明治政府のもとでようやく神として祀られることになった。勤王の士として顕彰しようというものであった。(健勲神社が建てられたのは)明治政府の政策の所産である。」


そういえば靖国神社の前身「東京招魂社」の創建が決まったのが明治2年。「健織田社」創設が決まったのも同年である。

・・・話が空中に行ってしまいそうなので戻すと、前回「秀吉と海賊大名」で読んだ僕の故郷瀬戸内の海賊掃討と、信長の「天下統一」はもちろん直接つながっている。


信長の征服は、戦国時代に築かれた地域権力体系と地域秩序を破壊するものであり、「もっとも大きは破壊は人的破壊だったのではないだろうか」と著者が指摘することの重みを、あらためてかみしめる。

秀吉と海賊大名

松山の老舗明屋書店の郷土コーナーで見つけた。
副題に「海から見た戦国終焉」とある。
海から見た、と言うよりは、滅び行く者たちから見た、といったほうが僕にはぴったりくる。
「日本」がここまで来る過程で、実にたくさんの人びとが、地域が、文化・風俗が滅ぼされてきた。
戦後の高度成長によって滅ぼされたものも数知れない。いまはまた「フクシマ」が「棄てられる」危機に直面している。
僕は、戦後のこの日本という場所に生まれて、幸せだったと思う人の一人だ。政府に異を唱えても、選挙で負けても、殺されることのない社会。戦後民主主義をとても肯定的に捉えている。
でも、歴史のこの段階に来るまでに、どれだけの人びとと地域が滅ぼされてきたのか。それは、失われて当然のことだったのか。あるいは、失われてはならないことだったのか。
「郷愁」でもなく、あるいはただの「世渡りの知恵」でもなく、歴史を知ることは、どういうことなのか。
瀬戸内を跋扈した海賊、海民たちを滅ぼしてほしくなかったと思う。滅ぼすべきではなかったと思う。
しかし、信長、秀吉の統一国家は、そんな作業なくしては成り立たず、それは現在に至る不可避の道筋だったのだ。
「ただし、天下統一から幕藩体制成立の過程を単なる軍事統一とみるべきではない。それを通じて、中世的な領主権が否定され、天下人が諸大名に領地・領民・城郭を預けるという基本原則、すなわち近世的知行制度が強制的に導入されたことこそ重要である。海陸を問わず国土領有権を武家政権が掌握し、領地思想を背景とした大名の官僚化と仁政にもとづく地域支配がめざされたのである。」
そして「江戸時代の四国は、さながら植民地状態だったといってよい。」と、愛媛出身の著者は淡々と書く。歴史的変化とは、新しいものが古いものに取って代わることであることは、冷厳な事実で、僕も今の時点での古い政治を終わらせようとしている者の一人ではある。
しかしそのプロセスにおいての歴史的進歩というものもあるのでは、とか。
いろんなことが頭をよぎり、ぱたんと安心して閉じることのできる読書にはならなかった。
最低限、滅ぼされた人びととその生活・文化を忘れ去ることだけはあってはならないと、自分に銘じる。

海と真珠と段々畑

海と真珠と段々畑

海と真珠と段々畑

松山に住む老父母のもとへ通う、そんな歳に僕もなった。
選挙での遠征も含め地方の空港を使うと、必ずその地の書籍を扱う書店が設けられている。松山空港にもそんなコーナーがあり、様々なテーマに心惹かれる。帰るたびに必ずなにか求めずにはおれない。
ただし、扱うテーマは様々で、中には細かな歴史資料を並べたマニアックなものもある。何とか地域おこしに役に立とうと、ちょっとすべり気味のものもある。
そんななかで「宇和海を舞台にした、真珠養殖を営む家族の物語」と副題にあるこの著書は、こころに残った。
愛媛県の南西の端。リアス式海岸のつづく宇和海の貧しくて厳しい生活が描かれる。段々畑での農作業は、その美しさと対比的にとってもシビアなもの。そこにふって湧いたのが真珠の養殖。だが、目先の利益を追い求めるあまり、過度の養殖を進めた結果、海は汚され、養殖は大打撃を受ける。
全国各地の「原発村」と、本質的には同じ構図が、ここにもある。少し長いが、あとがきから引く。
「とはいえ、この物語が投げかける問いかけは、宇和海の人たちにとって少しつらすぎるかもしれない。豊かさを追い求めるあまり、大切なものを犠牲にしてきたのはここだけではなく、全国いたるところに同じような話があった。けれどもこれを『みんな、やったのだから』という言い訳にしてしまえば、大きな犠牲を払った意味がない。つらくてもこの出来事を直視し、どうしたら持続可能な海や産業にすることができるかを考えなければ、この地域に未来はない。」「南予の人たちが元気を出して次の代に真珠養殖をバトンタッチできるよう、心から祈りたいと思う。」
僕より10年はやく生まれたこんな女性ジャーナリストが、故郷で活躍していることを、誇りに思う。

細菌が世界を支配する

細菌が世界を支配する―バクテリアは敵か?味方か?

細菌が世界を支配する―バクテリアは敵か?味方か?

「薬の歴史
 紀元前2000年 さあ、この根っこを食べなさい。
 西暦1000年 そんな根っこは野蛮だ。さあ、祈りなさい。
 西暦1850年 そんなお祈りは迷信だよ。さあ、この妙薬を飲み干してごらん。
 西暦1920年 そんな薬は当てにならないよ。さあ、この錠剤を飲みなさい。
 西暦1945年 そんな錠剤は効かない。さあ、このペニシリンを注射しよう。
 西暦1955年 おっと・・・バイ菌が突然変異した。さあ、このテトラサイクリンを注射しよう。
 西暦1960〜1999年 さらに39回の『おっと・・・』。さあ、もっと強力なこの抗生物質を注射しよう。
 西暦2000年 バイ菌の勝ちだ!さあ、この根っこを食べなさい。」

 著書の中段に「作者不詳」として紹介されているこのフレーズを読めば、わかる方はだいたい分かる。

細菌なしでは生きられない!
いやいや、世界は細菌から成り立っている!?と言っても過言ではない。

「実際にはすべての細菌のなかで病原菌が占める割合は小さいのに、15秒以内に細菌の名前を10個あげろと言われれば、たいていの人は病原菌の名前ばかりを並べ立てるだろう。
 私は人びとが抱く最近のイメージをよくしようという思いから、この本を書いている」
・・・・という著者の気持ちはとても理解できるが、読み通すには非常に骨の折れる著書だ。時間がかかる。素人にはすっと理解できることは少なく、つっかえつっかえしているうちに眠くなる事のくり返しである。半年近くお付き合いさせていただいた。

「バイ菌」を死語に!
これが、まず、ひとつの感想。そして、もっと大切なことは、菌をなめてはいけないということ。「工場式畜産を支える論理と家畜に抗生物質を与えるやり方は、合理的とはいえず、どちらもやめることが賢明ではないだろうか。」と著者が指摘するとおり、菌をなめた考え方やり方は、人類を含む生物界に破壊的な作用をもたらしかねない。
その意味では、「原発」とまったく同じ問題である。
すべての生命を育む細菌についての基本的な理解は、現代人の教養の必須だと考える。

農業に正義あり

農業に正義あり―田地一町畑五反貸さず売らず代を渡せ

農業に正義あり―田地一町畑五反貸さず売らず代を渡せ

ごつごつした書きっぷりで、最初は読みにくい。
著者の性格が伝わる。
特に前半の、明治政府による全国的で大規模な入会地収奪の経緯を延々と示すあたりは、
つい飛ばして進みたくなってしまう。
だが、その問題が大きな意味を持つことはその後説得力をもって展開される。

里地・里山というけれど、それはどこに存在するのか。確かに僕の田舎でも、共有の入会地は存在しない(僕の知る限りでは)。それは、無くなったのではなくて、収奪されたのだということ。
その後の農業は、入会地無しでの経営へと変化し、必然的に化学肥料への全面依存の道をたどる。戦争と重工業化が国家の柱となる時期。

その転換点の前、つまり幕末から明治初年には、日本の農業はアメリカやヨーロッパを圧倒的に凌ぐ生産力を持っていたという事実が示される。農薬にも化学肥料にも頼らず。

宮本常一が示した「百姓」の考え方。漁をし、畑を耕し、交易に携わり、時には海賊になり・・・そんなことも思い浮かべながら・・、それは随分前の時代のことだが、江戸期を通じて発展した多角的・労働集約的農業の有効性を改めて学ぶ。

もちろん著者も、時代を戻せと主張するわけではない。
過去に学び、今後のあるべき日本農業の姿が提示される。とっても大変な道のりと思うが、この方向が、今のところ僕には一番いいと思える。現実は一歩一歩だけれど。指し示す道筋として。